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"....we're doing these shows for much the same reason
as we broke up in 1994, for the fuck of it....".

ワンダースタッフのメンバー、再結成に寄せて

www.thewonderstuff.com から資料をいただいています。
原文を読んだ方で、この文章の訳がおかしいところを気づいた方は
ぜひお知らせください。

●Martin Gilks

ワンダースタッフ解散後は、しばらくの間何もしてなかったんだ。家族といっしょに過ごしてビールをいっぱい飲んで家事をして、現在5歳になる長女の誕生を楽しみにしてたんだ。でもお金はすぐ使い果たしちゃったけどさ!
もともとプレイを続けたいという気持ちは全然なかった。でもこれからの職業のことをいろいろ考えたりあやしげなオーディションをいくつか受けたりして、気づいたらまたWe Know Where You Liveでどんちゃんさわぎさ。 長いブランクがあったから、新しい曲をリハーサルしたりレコーディングするのはすごく楽しかった。だけどツアーが始まると、自分の気持ちがもうそこにはないって気づいていた。だから友好的に話し合ってから本気で新しい分野に挑戦しようと思った。試しにレコード会社で職を探してみたけどみじめになるほど職がなくて、それで自分のレーベルを作ろうと決めたんだ。でも財政的支援がなかったために予想以上に困難だと分かった。僕の計画というのは、おおざっぱなんだけど、ブティックによって浪費されているマーケティング予算の一部を着服して、洋服のアウトレットを通して若くていいバンド達に分配するというものだった。それで得られた金で新たなOasisと契約して 新たなAlan McGee(赤毛はないけどね)になるという計画だった。僕がOPM(Other People's Money:他人の金)というレーベルを設立して6ヶ月、仕事は起動に乗り始めたんだ。僕が主に見つけた地域は流行がいつも1年で変わって、たまに3年続くこともあるけど、メインストリートには広告のために何百万ものポンドが使われていた。まぁ 少なくとも去年は1996年のgoing to be brown(?)だったよ!
96年の7月まで、方向性はまだ定まってなかった。でも方針をかえようと決心して、僕は弟のTankeeladのいるFor All The Right Reasons (FATRR)の事務所にはいった。その事務所はマイルスがVENT414の頃に設立されたレーベルだ。CABLEという素晴らしいバンドが新しいマネージャーを探していた。そして僕はTankにいろいろ教わりながらその役を引き受けた。その年の終わりにはFATRRは失敗に終り(スポンサーの理解不足のせいでね)、REEFが僕らに加わってFurtive Managementは誕生した。
僕はこの業界のビジネス面になれようと一年ぐらい一生懸命がんばった、そしてそれは僕の新しい天職になった。AそしてLOWGOLDという素晴らしいバンドを今引き受けていて、僕はその仕事が大好きなんだ。バンドっていうのは基本的に同じなんだ。でも僕らと働いている連中は最高で、僕は彼等をサポートできてうれしいと思っている。おかげで眠れない夜もあったりするけど、いつも楽しんでるよ。
またプレイすること?あぁ、大変だ、汗はかくし手足が痛くなるし・・・hmmm パティーで会おうぜ

●Mirtin Bell

1988年セカンドアルバム HUP のレコーディングの時にマイルス、マルク、マーティン、そしてボブと出会った。the wondersutffが解散してからはthe cureのキーボードテクニシャンをしていた。前までは、現在では存在しないPro Audio Companyのテクニカルマネージァーとして働き、最近では作曲家Maurice Jarre、寓話作者Dina Eatonと共にIstvan Szaboの映画 Sunshine、Hugh HudsonのI Dreamed of Africaのアシスタントミュージックエディターをつとめた。また彼は単独でPiotr Szcopiakによる”low budget feature film(低予算が売り物の映画)” Small Time Obsessionの音楽を担当した。今はミュージックエディターとしてAnne Dudley 、Brian Eastman と共にNBC & HallmarkのテレビのミニシリーズであるSimon MooreのThe Tenth Kingdomの作品を作り終えたばかりだ。また去年の暮れは作曲家John Altmanとともにアメリカのテレビ映画Boss of Bossesで時間を搾り取られることとなった。

●Miles Hunt

1994年にバンドが解散した直後、俺のところにMTV ヨーロッパのウィークリーオルタネィティブミュージックショー「120minutes」の司会の話がきた。ワンダースタッフの後何をするかはっきりとは考えてなかったから、やってみることにした。でもどうしても14ヶ月間がまんすることしかできなかったよ。MTVギライの理由で辞めたんじゃない、それとは正反対で、実をいうと、自分があの仕事に向いてないと思ったからなんだ。それに加えて、MTVに出てる時から俺は新たなバンドVENT414を始めていたしね。メンバーは自分がボーカルとギター、ベースにSenseless ThingsのMorgan NichollsそしてドラムはThe Clash & EatのPete Howard 。俺はその頃まだポリドールと契約中だったから、なんとか一枚はアルバムを作っておきたかった、Steve Albiniをプロデュースに迎え、Abbey Roadでレコーディングした。全てがバラバラになる前のことさ。
VENT414をやってた同じ頃、For All The Right Reasons (F.A.T.R.R.)というレーベルをマーティンの弟でバンドのマネージャーのTankeeladと始めた。イギリスを活動拠点としているバンドとは契約しなかったけど、アメリカで活動しているChamberlain、Seaweed & Shiftというアーティストのアルバムをなんとか3枚リリースすることができた。レーベルはポリドールから資金援助をしてもらって配給されたけど、VENT414がうまくいかなかった関係でレーベルも結局は失敗に終わった。
1994年の終わりまでには俺の生活はShropshireに落ち着いた。曲を書いている間は ロンドンそしてつまらないブリットポップシーンから離れるためだった。その俺が望んだことはソロアルバムという形になって98年にリリースされることになった。レコードを取引する側になって、物事が特に自分のセンスがどれほど変わったのか全くわからなくなってから、かなり大変な時期だった。一年間俺は家で曲を作ったりデモを作ったりした、大半はマルクといっしょだった。だけど発表できる物はほとんどなかった。The Artist's Modelという舞台に7曲を提供したのを除いてはね。その舞台は98年の始めにイギリス南部をまわったんだ。それからどこからともなくマルク・トゥリースとアコースティックという形でアメリカツアーのオファーがきた。俺が考えてたものとは違ったけど、ちょうどオファーが殺到してなかったんで、俺達はやってみようということになった。マルクと俺は98年に北アメリカを全部で4ヶ月間ツアーした。その年の終わりにはソロアルバムのレコーディングをほぼ終えていて、アメリカツアーをブッキングしたGig Recordsがリリースしてくれることになった。94年の春、俺のファーストソロアルバム "Hairy On The Inside"が日の目を見た。セルフプロデュースという形だけど、マルクとマーティン・ベルの協力にはとても感謝している。イギリスでは輸入版か、www.gigrecords.comを通してじゃないと手に入らないけど、かなりアコースティック色が強いね、ローファイで。アルバムをリリースしたおかげでアメリカでもイギリスでも定期的にツアーするチャンスができた。今現在は次のソロアルバム"Flapping On The Pier"を作ってるよ。今回はワンダースタッフの頃いっしょに仕事をした Pat Collierがプロデュースしている。そのアルバムで会おう。

●Malcom Treece

実はワンダースタッフのファイナルギグの直後、俺は五年間付き合っていたガールフレンドのRochelleと結婚する時だと決めていたんだ。メンバーとのらくら過ごすのはそれはそれで楽しいもんだけど、良い時も悪い時もいつも俺を支え続けていてくれた人といっしょになって、特にその後はたくさん恩返しができたよ! ワンダースタッフが解散してからすぐギルクス、ポール・クリフォード(ワンダースタッフの2代目ベーシスト)と俺は元EATのボーカルのAnge DoolittleといっしょにWeKnoWhereYouLiveを結成した。ちょうどマイルスと同じように俺達もブリットポップシーン全体に興味が失せてた。でもVENT414と同じで自分等が出していた音を自分達自信は気に入ってんだけど、大衆受けはしなかった。だけどバンドは2枚の3曲入りEP"Draped"と"Don't Be To Honest"を自分達のレーベル HMD (Hatched, Matched & Dispatched)からリリースしてイギリスで大々的にツアーして、95年にはレディング・フェステバルにも出たんだ。残念だけど97年までには全てが自己焼失してしまった。おかしな話なんだけど、WKWYLの崩壊はマイルスのバンドがダメになっていった時期とほとんど重なって、俺は結局マイルスとPete Howardとレコーディングする羽目になったんだ。もし俺がこの事を正しく理解するとしたら、このセッションのせいでポリドールがVENT414から手を引いたのさ!俺達が目指していたものって本当にクールだと思った。3分のポップソングなんてやめて、15年近くもいっしょにやってきたのにもかかわらずまだ自分達の力を伸ばしたかったんだ。実際俺達はニューヨークで活動しているThe Golden PalominosのAnton Fierに会って、彼は俺達がやっていることに興味を持ってくれたんだ。だけどポリドールが手を引いて、それに続くように、ほとんど実現不可能になってしまった。
マイルスと俺は97年から98年を通して曲作りを続けて、俺達はアメリカでツアーをすることにした。そのツアーはすばらしかった。恐ろしい気分をまた味わえておもしろかったよ。メジャーレーベルの人間は付き添ってくれないし、ツアーマネージャーもいないし、クルーもいない・・・ただレンタカーとギターが何本かと一枚の地図だけ!海岸から海岸へ、夢だけを詰め込んでね。そして、あっ、このコーヒーハウスあそこにあるよ!って感じで。でもこのツアーでの真の喜びは、俺達の音楽をずっと好きでいてくれた人達と共に過ごせたことさ。商品を売るためにラジオ局の周りで無理やり引っ張り出されたりすることもないし、本当にしゃべることがほとんどないのにジャーナリストに自分達のことを説明しなくてもよかったからね。
最近では、俺は友人と曲作りをしてるよ、純粋に楽しみのためにね。そして今この再結成という形が実現して、バンドがどうしてスタートしたかということに対してふさわしい結論になったって感じだ。 確かに俺達が解散してメンバー同士に緊張はあった、だけど時間は十分に過ぎたし、くだらないもめ事をゆるせるんじゃないかな。またステージにあがれるなんて素晴らしい気分だろうな、ミロが俺の右側にいて、その横にはフィドゥリー、そしてギルクシーが俺達の後ろでドラムを叩いて。 はっきり言って待ちきれないよ!

LAST_MODIFIED : July 11 2007 JST